透明でまろやかな匂いがして、湯船は揺れていた。
なのに足をそっと滑り込ませた途端、それは容赦なく俺の傷口を侵食して、火傷したみたいに痛む。
まるであのひとのように。
優しいのより、残酷なのより、こういうのが一番堪えるんだってこと。
あのひとのせいで、知ってしまったんだ・・・。
「いってぇ・・・ちくしょう!」
僕はおもちゃの指輪しか持っていない
あなたがそこにいたらいいんだ。
それだけでいいんだ。
本当に、それだけで。
「仁島君も、ほら。温くならないうちに休憩にしよ」
そう言って缶ジュースを振るその人は、缶についた水滴がちらちらして、本当はあんまり見つめちゃいけない人みたいで・・・ともかく、直視できなかった。
「いつもすみません」
部長が代表として礼をして、マネージャーがそれに続いて。
彼女はいいのよ、と余裕の笑み。
安倍先輩は去年までうちのマネージャーをやっていた。
今はもう高等部に入っているんだけど、今は夏休みだから。遊びにきたんだ。
さっきから休憩の声がかかるのがすごく待ち遠しくて、その声の向こうにいるのが去年と変わらないあの人だってことが嬉しくて、だるいランニングも力が湧いてくる。
さっきだって「俺」に声をかけて欲しいから、わざと集まっていくみんなに遅れるように走りつづけた。
誰よりもあの人の呼ぶ声は美しいんだと思う。美しいという言葉を当てはめるなら、あの人の俺を呼ぶ声だと思う。絶対に。
「安倍先輩、高等部って強いんですか?今でもマネージャーしてるんですよね?」
「うーん、マネージャーはしてないのよ。けど強いよ。うん。今からみんなが上がってくるのが楽しみなくらい」
みんなが高等部のチームでプレイすることを想像している中、違う所が耳に障った。
「マネージャー、やってないって・・」
「あ、うん。ちょっとね、やめちゃったんだ」
口からすべり出した疑問。
それに応える安倍先輩の言葉。
その音が揺れていることに、揺れていることに気付くくらいに、俺は先輩が好きだった。
「部内恋愛は禁止っていうことで。えへへ」
なんか眩暈がした。
今日は今年一番の日差しでとか、いくら言い訳したって、今の言葉が堪えてるってことはあまりにもハッキリとしすぎていて。
なんか見たことない指輪が先輩の指に光ってたりとか、信じられないくらい眩しい。
「結婚退職みたいだね」
「なんだよー、ノロケにきたの?先輩」
「なによ、聞かれたから答えただけでしょー?」
心臓の音がうるさい。
うるさすぎて、それから先の先輩の声は、聞こえなかった。
ただただ笑い声とか、みんなの話すざわめきが渦巻きみたいに。
絶対脳味噌の酸素が足りてないんだ。
やっぱり今日は今年一番の日差しだからで、一番の暑さで、一番の、一番の・・・。
それからの練習は、なんかやっぱ、練習じゃなかった。
「がんばれ!」
応援の声、振られる手、それから笑顔。
こんなんじゃ先輩はがっかりする。
いつも先輩の前ではどんなに疲れても元気で可愛い後輩で・・・
可愛い、後輩で。
ちっとも男なんかじゃないって、知ってたけど。
頭の上を、飛行機が飛ぶ、音が。
キィン、って、音が。
何故か急に太陽とそれに突っ込んで行く飛行機が見えて、背中が痛んだ。
「大丈夫か!」
へへ、なんか耳がおかしくなったみたいだ。
暗闇から白濁へ。
ついで表れたのは、今までで最高に距離を縮めた先輩の顔だった。
「仁島君」
ああ。
「大丈夫?軽い熱中症とかだと思うんだけど・・・」
ああ。
なんか、ひやひやする。
タオルとか、頭に乗っているらしい。
「分かってる?倒れたんだよ仁島君」
「ああ、そうかそれでさっきの」
飛行機は太陽をすり抜けて、もう見えなくなっていた。
日陰にある水呑場ののコンクリートはひんやりとはいかないけどぬるくて、なんだかぼーっとする温度だ。
「さっきのって?」
「なんか、飛行機が特攻みたいに太陽に入っていったのが見えて・・・」
俺みたいだと思った。
燃えてしまうのに近づいて。それでも、きっと満足してるんだ。
そこが一番の場所だから。
「もう、いきなり仰向けにひっくり返るから死ぬかと思ったのよ?お年寄りじゃなくても危ないんだからね。あとできっと岡屋先生にも怒られるんだから」
怒ってるんだか笑ってるんだか分からない表情。
いつだったか試合に負けた時も、こんな顔して叱られた時があったっけ。
額に乗せられたタオルを水につける時に外された指輪のおかげで、違うとわかっているのにあの頃のままのような気がして、不思議だった。
「さて、と。今日は早めに上がんなさい。私ももうそろそろ帰らなきゃだし、途中まで一緒に帰ろう」
「けどまだ・・」
「いいから。もう少し休んだら来て。私先にみんなに声かけてくるから」
そう言って小走りに去っていく姿を見上げてたからか、なんだかとても先輩、という言葉がひやりとした。
なんかもう本当に、頭冷やさないと。ヤバイ。
そう、もうきっと先輩はここには来ないんだから。
どんどん高校生の部分が多くなって、そのうちぱたりと来なくなる。
その時にひとりで寂しかったりする気持ちを抱えるのはごめんだ。
さっき倒れたこととか、信じられないくらいに頭は正常に働いていた。
おかしいのは俺の頭だ。
のろのろと立ち上がって、近くの水呑場で額に乗っていたタオルを洗って、自分の頭も洗ってやった。
乾いたタオルなんて持ってないけど、そうしたかったから。
目を瞑って頭から水を被って、目を開くと、何かがきらりと光った。
指輪、だった。
先輩の彼氏は高等部のベースボールプレイヤー。だから来年になったら俺はその人の後輩になって、迎えに来る先輩の笑顔に耐えなくちゃいけなくて、ノロケみたいななれそめの話を聞きたくもないのに囃子立て催促して聞き出すんだ。どうしようもない俺はその話を聞いて今日みたいにまた騒いで、冷静な周りはそれを見て不憫に思ったり馬鹿だと思ったり同情して方に手を置くかも知れない。それでも、それでも同じことを分かってて繰り返すのはやっぱり馬鹿なのですか?だから馬鹿だからあなたは入学してまだ半年も経たないうちにこんなもので誰かに繋がれてしまうのですか?もう俺にはどうしようもないのですか?最初からどうしようもなかったのですか?この指輪がなくてもこの指輪があるせいでこの指輪が指輪が指輪が・・・
「仁島君、さっき私そのへんに指輪外して置いたんだけど知らない?」
我に帰ったのは皮肉にもその人の声でだった。
「ううん、俺は見てないけど・・・」
「そう?・・・ホントだおかしいなあ、外してポケットにでも入れたかな・・・」
「部室で外したとかじゃなくて?」
「うーん、自信ない・・・って、わ、仁島君びしょ濡れだよ。待ってタオル取ってきてあげる」
俺のことは、指輪より下だった(当たり前だけど)
「いいです。もう大丈夫だから部室で自分のタオルで拭くから」
結局指輪を探すために残った先輩と、俺は別れて先に家に帰ることにした。
指輪探し、多分前の俺だったら日が暮れるまでだって手伝ったと思う。
けど、そんなの無駄だって今の俺は分かってるから。
出てこないんだ、指輪は。
だって俺のポケットの中にあるから。
俺は先輩が思うような可愛い後輩でも何でもないよ。
この小さな石のついた指輪で緑色の黒板すべてに彼女が好きだと刻みこんでやろうか。
手始めに蹲った自分の足に刻もうとしたけれど、血が出てきたからやめた。
どうせこの石は、きっと俺なんかの小遣いで買えるようなものじゃないんだろう。
けどそれがどうしたというのだろう。
高校生は中学生とどう違う?身体が生まれるのが一年早くて、身体が朽ちるのが一年早いだけ、ただそれだけの話なのに。
なのになぜそれが、永遠に縮まらないのだろう。その一年がにくい。
その人を先輩としか呼べないことが、触れることも出来ない臆病な自分が、なによりも嫌だ。
透明でまろやかな匂いがして、湯船は揺れていた。
なのに足をそっと滑り込ませた途端、それは容赦なく俺の傷口を侵食して、火傷したみたいに痛む。
まるであのひとみたいに。
優しいのより、残酷なのより、こういうのが一番堪えるんだってこと。
あのひとのせいで、知ってしまったんだ・・・。
黒い穴の中に水が吸い込まれていく。
そして、光る石をつけた小さな指輪も。
明日もあの人は来るだろうか?指輪を探しに。
ブラウザバックで戻ってね。
|